〜ニュピを過ごして気づいた、立ち止まることとケアの話〜
バリ島には、一年に一度、島全体が動きを止める日があります。
バリ・ヒンドゥーの新年「ニュピ」です。
ニュピの前日

ニュピの前日。
朝から、島にはどこかいそいそとした雰囲気がありました。
新しい年を迎える、日本の大晦日にも似た空気です。
夕方になると、道路から鉦を鳴らす音が聞こえてきました。
夕暮れどき、滞在していた宿では、家の人たちが敷地の中で竹筒を叩くような音を鳴らしていました。
そして夜、オゴオゴを見るために広場へ。
オゴオゴは、悪霊や人の中にある悪しきものを表した巨大な像です。
たくさんの人が集まり、ガムランの音が響く中、オゴオゴが街を練り歩きます。
ものすごい熱気でした。
そして翌朝。
その島が、止まります。
島全体で、何もしない
ニュピの日は、外出をせず、仕事をせず、火や灯りの使用を控え、娯楽も控えて過ごします。
空港も閉まり、飛行機の離発着も止まります。
観光客も宿の敷地内から出ることはできず、その中で一日を過ごします。
この島にいる人たちが、みんなで「何もしない」。
バリ・ヒンドゥーを信仰している人だけではありません。
宗教も、人種も越えて、その日、この島にいる人たちが同じ時間を過ごします。
私はこれまでに、二度のニュピをウブドで体験しました。
二度目のニュピでは、「何もしない」ことの難しさを、自分でも笑ってしまうような形で知ることになりました。
何もしない一日の途中で、ふと気がつくと、私はスマートフォンを手にしていました。
調べていたのは、ニュピが明けてからのこと。
次の街へはどうやって移動しよう。
どこでごはんを食べよう。
よさそうなお店はあるかな。
そこまで調べて、ふと我に返りました。
わざわざバリまでニュピを体験しに来たのに。
島中が「何もしない」をしている、その真ん中で、私はもうニュピが終わったあとのことを調べている。
なんとも滑稽でした。
スマートフォンを置いたら、そこにあったもの
どうしてスマートフォンを手に取ったのだろう。
退屈だったというより、その奥には少し不安がありました。
この先、どうしよう。
次はどこへ行こう。
何を食べよう。
わからないことを調べて、情報が手に入ると安心する。
次にすることが決まると、もっと安心する。
まだニュピの一日は終わっていないのに、身体はここにいるのに、意識はもう「次」へ向かっていました。
スマートフォンが悪いわけではありません。
旅先では、とても頼りになります。
ただ、ニュピという特別な一日だったからこそ、自分の習慣がよく見えました。
わからないことを、わからないままにしておくこと。
次を決めずにいること。
何もない時間を、すぐに何かで埋めないこと。
「何もしない」は、思っていたより難しい。
そこで、スマートフォンを置いてバルコニーに出ました。
目の前にはジャングルがある。
鳥たちの声が聞こえる。
木々の向こうには、動物たちの気配がある。
風が肌に触れる。
温かいお茶を飲んでいる。
そして、自分の身体がここにある。
何か特別なことが起きているわけではありません。
けれど、人の動きが止まった島では、いつもそこにあったものが、とても身近に感じられました。
人間だけが時間を決め、予定を立て、次々とやることをつくり、そのルールの中で暮らしている。
より便利に、より豊かにと築いてきたはずなのに、いつの間にか、その仕組みに自分たちが縛られてはいないだろうか。
そんなことが、ふと胸に浮かびました。
何もしないから、出会えた

バルコニーでジャングルを眺めながらお茶を飲んでいると、隣の部屋に滞在していた中国人の女の子たちと、どちらからともなく言葉を交わしました。
その隣には、ヨーロッパから来た家族が滞在していて、そこでも自然と会話が始まりました。
みんな、それぞれ違う場所からバリへ来て、たまたま同じ宿の隣り合った部屋にいる。
ニュピの日は宿の敷地から出ることができないので、その日はみんな、そこにいました。
普段なら、それぞれ観光へ出かけ、次の予定へ向かい、出会わなかった人たちかもしれません。
でも、その日はどこにも行かない。
何もしない。
だから、そこにいる人と言葉を交わした。
鳥の声も、動物たちの気配も、隣にいる人たちも、もともとそこにあったものです。
私が何かをしなくても、世界はちゃんと動いていました。
むしろ私が動くのをやめたことで、そこにあるものに気づけたのだと思います。
より良くなる、その前に
私たちは、より良くなろう、変わろうとすると、まず「何をするか」を考えます。
どうしたらいいのかを調べる。
新しいことを学ぶ。
身体のために運動を始める。
暮らしを整える。
働き方を変える。
旅に出る。
誰かに会いに行く。
より良くなるために、情報を集め、何かを始める。
それはもちろん、大切なことです。
でも、その前に。
何かをする前に、何もしない。
変わろうとする前に、今の自分の心と身体を感じてみる。
何を感じているのか。
何を大切にしているのか。
そこに触れてから、次へ進む。
変わることは、何かを始めることだけではない。
火を使わない一日
ニュピの日は、火や灯りの使用も控えて過ごします。
その中で、私の心に残ったのが「火を使わない」ということでした。
火は、料理をし、身体を温め、暗いところを照らしてくれます。
そして私自身は、火というエレメントに、暮らしの中の熱や活動する力も重ねています。
身体の熱。
何かを始める力。
ものを変化させる力。
前へ進むエネルギー。
そんな火を、一日休ませる。
火を灯し続けるのではなく、ときには止めてみる。
前へ進み続けるのではなく、とどまってみる。
実際にその一日を過ごしたからこそ、心に残った感覚でした。
火、水、風、土
バルコニーで感じた風。
手にしたお茶の温かさ。
ジャングルの木々や、そこにいる自分の身体。
火、水、風、土。
昔から人が自然や身体を捉えるときに見てきたものは、どれも目の前にありました。
忙しく動き、次のことを考えているときには、気づかずに通り過ぎてしまうものばかりです。
情報の中には、たくさんの答えがあります。
でも、
「私は今、何を感じている?」
その答えは、自分の心と身体にしかありません。
自分の心体感覚に戻る。
そこから、自分が何を大切にしているのかに触れていく。
人生の節目に、すぐ次を始めない
人生には、大きな節目があります。
新しい命を迎える。
仕事や住む場所が変わる。
誰かとの関係が変わる。
何かを終える。
「変わりたい」と感じる。
そんなときほど、私たちは次へ進もうとします。
これからどうしよう。
次は何をしよう。
新しい自分になるために、何を始めよう。
でも、大きく変わるときほど、すぐに次を始めない。
これまでと、これからの間に、何もしない時間を持つ。
出産も、そのひとつです。
赤ちゃんが生まれたら、子育てを頑張ろう。
家事もやらなくては。
新しい暮らしに早く慣れなくては。
出産という大仕事を終えたばかりなのに、すぐ次の役割が始まります。
私が学んできたタイの伝統的な産後ケア、ユーファイには、出産後すぐに元の暮らしへ戻るのではなく、身体を温め、休ませ、回復を待つ時間があります。
ニュピでは、火を使わない。
ユーファイでは、火や温もりを取り入れる。
一見すると、反対のようです。
でも、私の中ではつながりました。
大きな節目のあとには、すぐに次を始めない。
いつもと同じように動き続けるのではなく、そのときの自分を感じる。
活動し続けてきたなら、火を休ませる。
大仕事を終えた身体が温もりを必要としているなら、温める。
水をとる。
呼吸を感じる。
身体の重さを預ける。
そして、休む。
人生の節目では、
「これから何をするか」
だけではなく、
「今は何をしないか」
も大切なのだと思います。
大切な人にも、何もしない
何もしないことは、自分に対してだけではありません。
身近な大切な人に対しても、同じことがあります。
大切だから、何かをしてあげたくなる。
心配だから、助言したくなる。
困っているように見えれば、先回りしたくなる。
よくなってほしいから、方法を探したくなる。
それは、その人を大切に思っているからこそ生まれる気持ちです。
でも、何もしないことがケアになるときもあります。
先回りしない。
答えを決めない。
すぐに変えようとしない。
その人自身が、自分の心と身体を感じる時間を待つ。
「何もしない」は、放っておくことではありません。
そばにいる。
見守っている。
必要なときには手を差し出す。
でも、相手が自分で感じ、選んでいくところまで奪わない。
ケアすることは、いつも何かを「してあげる」ことだけではありません。
一緒に、何もしない
家族でも、パートナーでも、仕事の仲間でも。
はじめは同じ方向を向いていたはずなのに、一緒に進むうちに、少しずつすれ違うことがあります。
お互いに、より良くしたいと思っている。
目指している場所も、それほど違わない。
それでも、一生懸命に進んでいるうちに、見ている景色が違ってくる。
そんなとき、
どうすればうまくいくのか。
何を変えればいいのか。
次はどうしようか。
と、また「すること」を探してしまいます。
でも、その前に。
一緒に何もしない。
答えを出そうとせず、すぐに改善しようともせず、いったん同じ場所にとどまる。
そこで、自分が何を感じたのか。
何を大切にしていたのか。
相手は何を感じ、何を大切にしているのか。
改めて共有してみる。
同じ景色を見ていても、感じていることまで同じとは限りません。
「私は、こんなふうに感じていたよ」
「あなたは、どうだった?」
そこから、もう一度始めることもできます。
ニュピの日、バリ島では、一人だけが休むのではありません。
飛行機の離発着まで止まり、この島にいる人たちが、ともに立ち止まります。
宗教も、人種も、ここへ来た理由も違う。
それでも、その日は同じ島で「何もしない」という時間を過ごす。
そして私自身も、何もしないでバルコニーにいたからこそ、隣にいた人たちと言葉を交わしました。
何かを求めて出かけた先ではなく、そこにとどまったことで生まれた会話でした。
一緒に止まる時間には、人と人をつなぎ直す力もある。
何もしない時間の先に

ニュピの日。
私はスマートフォンの中で、まだ来ていない「次」を探していました。
でも、スマートフォンを置いて顔を上げると、目の前にはジャングルがありました。
鳥たちの声があり、動物たちの気配があり、風が吹いていました。
隣には、さっきまで知らなかった人たちがいました。
私が何かをしなくても、世界はちゃんと動いていました。
人生が大きく変わるとき。
自分を変えたいとき。
大切な人を助けたいとき。
誰かとの関係を、もう一度見つめたいとき。
私たちは「何をするか」を探します。
けれど、その前に、何もしない。
自分の心と身体を感じる。
何を大切にしているのかに触れる。
大切な人に対しても、すぐに答えを出したり、先回りしたりせず、その人自身が感じる時間を待つ。
誰かと一緒なら、それぞれが感じたこと、大切にしていることを、もう一度確かめ合う。
そこから、次へ進む。
何かを始める強さもある。
前へ進む強さもある。
誰かのために動く強さもある。
そして、
何もしないでいられる強さもある。


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