わたしの家族の命のエピソードをご紹介します。
お盆で実家に帰省中、従兄ファミリーがお墓参りにやってきました。
その時、祖父が一枚の古い白黒写真を従兄に差し出しました。
それは戦死したときに遺影となるはずの17歳頃のポートレートでした。
現在91歳。私が生まれてから今まで入院したこともなく、今も畑仕事や庭仕事に精を出す元気な祖父です。
祖父は十代前半か半ばで特攻隊予科練に所属し、特攻兵になるための訓練を受けていました。
当時、祖父は日本が勝つなどとは全く思っていなかったと言います。
ですが口にすることはできず、いつのまにか洗脳されていたと振り返っていました。
『一人で死ぬのは怖いが、みんなで死ぬことは怖くなかった。それが特攻兵の運命だと思っていた』
出撃することを家族に知らせてはいけない決まりでしたが、上官の目を盗むために暗号を使った手紙を書き、遺品となる髪の毛と爪を実家の両親に送ったそうです。
その直後、1945年8月15日、戦争は終わりました。
祖父は出撃することなく、生きながらえたのです。
『死ぬと思っていた自分が、これからも生きられることが嬉しくて嬉しくて有頂天になった!』
そう力強く話してくれました。
小学生の頃、祖父母から戦争の話をよく聞かされました。
感性が鋭い私は鮮明に想像してしまい、その度にお腹が痛くなっていたのでとても嫌な時間でした。
ただ、二人ともよほど話したいんだなぁという印象と、戦争は二度とやっていはいけないことなんだなぁという確信を持ちました。
それから約25年後、NY在住のウクライナ人写真家のプロジェクト『Veterans』という第二次世界大戦に関わった各国の人々の現在のポートレートと戦後の人生の記録のことを知り、祖父も参加することになりました。
私は撮影に立ち会えなかったので電話で様子を聞くと、思ってもみない答えが返ってきました。
『本当は戦争の話をするのは嫌だった。思い出すのは辛い。だが孫のお前からの話だから引き受けた』と。
わたしはてっきり戦争の話をしたくて仕方がないのだと思い込んでいました。
その時はじめて、孫のわたしにだからこそ話してくれた、祖父母の愛だと気付いたのでした。
私にとって祖父は躾がとても厳しく、いつも怒られないようにとびくびくしていなければならない厄介な存在でした。
それが祖父の生きる喜び・生きている感謝に触れ、仁王像のようなイメージが崩れ去り、好奇心旺盛で行動力のある、快活で生きることに貪欲なイメージに変わったのでした。
祖父は全身全霊で『生きることの奇跡』を私に教えてくれました。今もなお教えてくれます。
それに気付き祖父の存在を受け止めた時、涙がとめどなく溢れ、今までの確執が融けていきました。
『家族はお互いの魂の成長のために存在する』という言葉を確信したのも、この時でした。
そして現実の祖父との関係性もずいぶんと変わり、びくびくすることは全くなく、自然な会話ができるようになったり、自分の気持ちを素直に伝えられるようになったり、困っている時は助けを求めることができるようになったりと、子どもの頃の私からは想像もできないような奇跡の変化を遂げ、現在に至ります。
いまある命、思う存分人生を味わい尽くすことを、
これから産まれてくる命の奇跡をお互いに目撃しあえる世界を、
わたしは目指しています。
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